AIに何ができて、何ができないか
情報
著者:新井紀子
発行:2018年2月2日
目次
- MARCHに合格――AIはライバル
- 桜散る――シンギュラリティはSF 読解力と常識の壁――詰め込み教育の失敗
- 教科書が読めない――全国読解力調査
- 最悪のシナリオ
書評などなど
AIにはロマンが詰まっている。
いずれAIは人間を超え、AIが自身の能力を超えるAIを作り、そのAIがさらにAIを作り、というループを繰り返すことで起こる技術革新。その特異点をシンギュラリティと呼び、AIの世界的権威であるレイ・カーツワイルが提唱した2045年問題――要は2045年にその特異点が訪れるという訳だ。
そんな高度な成長を遂げるAIが、人の仕事を奪うと言われ続けて何年が経過したか。
そんなAIのロマンとされている部分を数学的・科学的に否定し、これからの社会を生きていく上で必要な読解力が失われつつあるということを、問題提起しているのが本著である。
前半部ではAIに出来ることと出来ないことを精査している。後半部ではAIには出来ない(とされてきた)読解問題に関して、現代の日本人はAIレベルにまで落ちているのではないか? という教育に関連した問題提起を行うという構成になっている。
本著を購入した読者は、そのどちらに期待しているのかで本著に対する評価は二分するように感じた。
まず前半部に関して、AIにできること/出来ないことを二分する上で、数学的・科学的に定義できる/できないという形で精査している。例えば、人が当たり前に持っている常識を数学的にAIに教え込むことはできないとし、AIと人間とを分け隔てる境界としている。
もう少し分かりやすく例示するならば、『人は運動すると疲れる』という常識を、AIは本当の意味で理解できない。何故なら『疲れる』とはどういう状態か理解できないから。
この辺りの議論は多くの哲学者が通ってきた命題であろう。アラン・チューリングが提唱したAIが知能を持ったかどうかを判定するチューリングテスト、それに対する反証として哲学者ジョン・サールが出した思考実験『中国語の部屋』のように。
そもそもAI開発の歴史は、「人間の持っている知能とは何か?」という命題に挑む人類の挑戦だと思っている。さきほどチューリングテストは知能を持っているかどうかの判定に使うと書いたが、知能の定義によってはチューリングテストの判定結果は正しいし、逆に正しくないとも言える。
この知能とは何かという命題に対する答えは、未だに出ていない。そしてその答えは永遠に出ないだろう、なぜならば数学では表現できない限界が存在するから――ここは本著における大きな柱になるのだが、ここは議論の余地がある気がする。
現にAIが読解問題に挑む上で重要な技術、自然言語処理は目まぐるしい発展を遂げている。AIが小説を書くAIノベリストは序章の序章に過ぎず、『文脈を読むことが可能になった』とされるBERTが公開された。今も尚、AIのロマンは終わっていないとブログ主は思っている。
さて、後半部は教育現場に対する問題提起だ。
そもそもAIの限界を数学の限界という結論に達したのは、AIが東大合格を目指すという一大プロジェクト『東ロボくんプロジェクト』を推し進める上で感じた限界によるものが大きい(そもそもプロジェクト開始当初から無理だと感じていたようで、それをプロジェクトを通じて改めて確認したという方が正しい)。
そして、そんなAIが仕事を奪っていき残された仕事を考えた時、人々に残された武器は読解力であるとした。しかしながらその読解力に、日本人は多くの問題を抱えており、そこをどうにかしなければいけないと論じている。
その問題は、AIに解かせていたRST(リーディングスキルテスト)と呼ばれる読解力を測るテストを、人間にも解かせたことで発覚したというのだから面白い。正しくAI開発の副産物による成果だといえよう。
このままでは読解力のない人々は、AIによって仕事を追われ淘汰されていく。それによって引き起こされる大不況を最悪のシナリオとして描き、社会に対する問題提起としている。
そんなこれからのために鍛えるべき読解力をどのように鍛えるか――この多くの人が気になるだろうポイントについては語られていない。筆者は数学者であって教育者ではない、そこを求めるのはお門違いだろう。
AIと数学の関係性、そして読解力と教育の関係性、それぞれを学ぶことができる良書だったのではないだろうか。